中国人強制連行・花岡事件とは
 第二次大戦中の1942年11月、東条内閣は閣議決定「華人労務者内地移入ニ関スル件」を下し、1944年2月に「華人労務者内地移入ノ促進ニ関スル件」を次官会議で決定しました。国と企業が一体となって35企業135事業所に38,935名の中国人を強制連行しました。中国人たちは鉱山や土木工事、港湾荷役などの過酷な強制労働を課せられ、そのうちの6,830名の人々が命を奪われました。
 その一つが秋田県の鹿島組(現鹿島建設)花岡出張所で、1944年8月から翌年6月にかけて986名の中国人が強制連行されました。過酷な労働と鹿島組職員の虐待と暴力・飢餓により多くの仲間が次々と命を落とすなか、中国人たちは人間としての尊厳、民族としての尊厳をかけて一斉蜂起しましたが、蜂起はただちに鎮圧され、中国人たちはすさまじい拷問と弾圧にさらされました。7月には100名が死亡しました。
 首謀者とされた中国人12名は秋田刑務所に収監され、日本の敗戦後の9月に秋田地裁によって無期懲役をはじめとする重刑が言い渡されました。しかし10月になると秋田に進駐してきた連合国軍によって中国人全員が釈放され、今度は鹿島組職員7名と警察官2名の計9名が横浜BC級戦犯法廷で裁かれました。しかし、この間、花岡の中国人は1945年の8月に49名、9月には68名、そして10月に至ってすら実に51名が死亡しています。986名のうち実に418名が祖国の地を踏むことができなかったのです。